おとみ坂の夜泣き石<象間>
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「おお。」
と、いっただけで息をひきとってしまった。
夕方、いつになっても帰らない二人を探しにきた家の人達は、
「つねぼう、つ、ね、ぼ、う・・・」
と、泣き叫びながら、岩をまわりつづけているおとみを見て、驚き悲しんだ。そして、その悲しみは怒りとなって、おとみに向けられた。
「どうしてあんなところへいったんだ。あれほど、いくなと言っておいたのに・・・このうかつものが・・・」
常作の母は、声も涙もかれて泣き伏すおとみを、くどくどと責め、野辺の送りもすまぬうちに、おとみを親許につきかえしてしまった。
そのときから、数日たったある夜、この坂道をとおった村人が、
「おおん、おん。」
と、いう声をきいた。それは男の子の泣き声のようだった。
ふしぎに思った村人は、ちょうちんの明かりをたよりに、声の主を探したが、声は岩のあたりから聞こえるだけで、だれもいない。
村人は、岩の下敷きになった常作のことを思い出すと、ちょうちんをほうり出して帰ってしまった。
次の夜も、その次の夜も、岩は人が通るたびに、
「おおん、おおん。」
と、泣くようになり、人びとはその岩を、「象間の夜泣き石」と、呼ぶようになった。
親もとに帰されたおとみは、ふたたび、子守り奉公にだされたが、常作のことは一日として忘れられなかった。
七年が過ぎたある日、夜泣き石のうわさを聞いたおとみは、こっそり、奉公先を抜け出し、象間にいそいだ。
日暮れどき、夜泣き石にたどりついたおとみは、お燈明ををあげ、夜の明けるまで心をこめて供養をつづけて立ち去っていった。
すると、その日から泣き声は聞こえなくなったという。
村人たちは、このおとみのいじらしさをしのび、この坂道を「おとみ坂」と呼ぶようになった。
一説には、次のような話もある。
身重な静御前が、義経をおって平泉へ向かう途中、この坂道を登りきったところで、男の子を死産し、坂下の原にその子を埋めて、
墓石がわりに大きな石を置いた。そこで、男の子を産み落とした坂というところから「男産坂(otomizaka)」と、呼ばれるようになったともいう。
この内容は、鹿沼市上殿町にお住まいの”小杉義雄”さんが昭和51年に発行された
「子どものための鹿沼のむかし話」より抜粋させていただきました。
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